◇◇ 焼き物 ◇◇

◇VOC 世界初の株式会社 ◇ブルーオニオン
◇マイセンの絵柄 ◇ウエッジウッドとポートランドの壷
◇湯呑で紅茶を飲んだ貴族 ◇ボーンチャイナの由来
◇18世紀の貴重な芸術品 ◇2月28日は織部の日です
◇瀬戸焼の危機を救ったのは? ◇桃山陶の生産地
◇西洋での磁器づくりの始まり ◇文豪トルストイの一輪さし
◇「一井戸、ニ楽、三唐津」 ◇碗、お膳、廊下の意外な関係
◇御深井釉と尾張徳川家 ◇日本の白磁のはじまり
◇「わらべうた」の茶壷 ◇日本最古の施釉陶片
◇信楽焼の狸のルーツ ◇信楽焼のはじまり


ブルーオニオン


マイセンと言えば、白磁にコバルト色で描かれた装飾模様がある「ブルーオニオン」が有名です。1739年、ヨハン・D・クレッチマーによってデザインされたもので、現在においても高い人気があります。
ブルーオニオンの模様は、中国で完成された染付け技法で、シノワズリ(中国趣味)として取り入れられたものです。日本の有田焼きにみられるように「芍薬」、「竹」などがお皿の中心に、左右非対称に描かれています。模様は、中国の染付け磁器に描かれた「石榴(ざくろ)」や「桃」「芍薬」「竹」をお手本としておりますが、「石榴」を「玉ねぎ」と勘違いしたため、この名前がつけられました。桃は富を、石榴は子孫繁栄、芍薬は不老不死、竹は名声を表しています
現在、多くの企業がマイセンの「ブルーオニオン」の模様を真似た商品を作っています。1888年頃からマイセンのマークである「青い双剣」を竹の幹の部分にいれて他の商品と区別しているそうです。
(参照) こちら 



VOC 世界初の株式会社


VOCのロゴマークの入った陶磁器がありますが、どんな意味があるのかご存知でしょうか?VOCは有田の磁器をヨーロッパに紹介したオランダ東インド会社(Vereenighde Oostindische Compagnie)の通称です。このVOCを組み合わせたロゴマークはシンボルマーク(社章)として用いられ、倉庫や貨幣、旗や陶磁器などに入れられていました。1602年に設立された世界初の株式会社としても知られています。それ以前は航海の都度『座』を開いて出資者から資金を集めて行う一航海限りの組織でしたので、船が海賊に襲われたり、難破した場合リスクが大きかったようです。こうした資金の非効率をなくし、リスクを分散する方法『株式会社』を考え出したのがオランダ人だったのです。組織力が強まり、リスクも分散。この結果、他のヨーロッパ勢を押しのけ力をつけていきます。イギリスも東インド会社を設立していましたが、株式会社でなかったため、組織力・資金不足のためわずか3年ほどで日本から撤退していきました。資本主義の最大の発明は『株式会社』だといわれています。その意味においてオランダの果たした役割は重要ですね。

(参考)フリー百科事典『ウィキペディア』のHP  



ウエッジウッドとポートランドの壷


日本でもファンの多いウエッジウッドのバックスタンプは、大英博物館にある名品『ポートランドの壷』をデザインしたものです。ポートランドの壷はカメオ・グラスの一つで古代ローマ時代に作られたものです。深いブルーのガラスに白いガラスを被せ白ガラスを削り出して人物などの彫刻が施されています。
1790年、ウエッジウッドは4年の歳月をかけてジャスパーウェアで古代ローマの壷を再現しました。青灰色の素地に白い繊細なレリーフ装飾を貼り付けて作られています。その復元に成功したというウエッジウッドの誇りがこのマークにこめられているようです。
1845年、大英博物館に陳列されていた本物が何者かによって200ほどの破片に壊されました。その復元にウエッジウッドのポートランドの壷が大いに役立ったそうです。現在ではロゼッタストーン、ミイラと並び、大英博物館の目玉の一つとなっています。

(参考)aglass madridglassのHP     ル・ノーブルのHP     西洋アンティーク辞典



マイセンの絵柄


17世紀、西洋で初めて白磁の製造に成功したのはマイセンです。この当時ヨーロッパでは中国風「シノワズリ」と呼ばれる東洋趣味が流行していました。絵付師ヘロルトもその流行をいち早く作品に取り入れ中国趣味の文様・柿右衛門様式の絵付けを好んで使っていました。1720年、ヘロルトの代表作品『インドの花』は東洋風の菊や牡丹を描いたもので、今でも根強い人気シリーズです。また、シノワズリといえば忘れてならないのが1739年絵付師クレッチマーの『ブルーオニオン』です。ざくろの実を図案化したものだそうですが、ヨーロッパの人々には玉葱に見えたためその名がついたそうです。コピー商品が出回るほどの人気商品のため、中央の竹の絵柄の中にマイセンの象徴である青い双剣を描き入れるようになったそうです。マイセンはすべて手作りで作品を作り出していことには驚きます。美しく豪華な手描き磁器には心惹かれるものがあります。



ボーンチャイナの由来


17世紀、ヨーロッパの人々は、東洋の磁器の持つ透き通るような白い肌に憧れ、なんとかして自国で白色の磁器を作り出そうと努力を重ねました。1708年、西洋で最初に白磁器づくりに成功したのはマイセン(ドイツ)です。その後、ヨーロッパ各地で磁器が作られるようになりましたが、イギリスでは、白磁づくりに欠かせないカオリンが採れなかったため、磁器を作ることができませんでした。それでもあきらめず努力を重ねた末生まれたのがボーンチャイナです。1748年、牛の骨を焼いた骨灰を混ぜることによって白磁器を作ることに成功します。ボーンチャイナはBone China=「骨の磁器」という意味で、透光性があり独特の白さに特徴があります。この白さは骨の主成分であるリン酸カルシウムが引き出しています。chinaには「中国」という意味の他に、「磁器」という意味もあります。磁器の発祥の地が中国であることから、磁器をchinaと呼ぶようになったようです。



湯呑で紅茶を飲んだ貴族


ティーカップは紅茶と同様17世紀ごろ、中国からヨーロッパに伝わりました。この当時のティーカップは中国や日本製の磁器で、受け皿もなく取っ手もない湯呑茶碗を使用していました。その後、オランダ東インド会社が大量に売れ残った「小皿」を売りさばくために、トルコでカップと受け皿を組み合わせて使うことが流行っていたことにヒントをえて、小皿と湯呑をセットで売ることを思いつきました。その後、セットで使われるようになり、取っ手のないカップの熱い紅茶を受け皿にこぼして冷ましてから飲んでいたようです。18世紀になると受け皿から紅茶を飲むよりカップから飲むのがしゃれていると思われるようになり、取っ手がついようです。昔から取っ手の付いたマグカップでお酒を飲んでいたので、取っ手の付いたカップに馴染みがあったからだといわれています。



2月28日は織部の日です


2月28日は織部の日です。織部の茶碗が史実に初めて登場した日です。1599年2月28日、千利休の弟子で大名でもある古田織部は京都で茶会を開き、招いたお客様を驚かせました。博多の豪商神谷宗湛の日記の中で、「薄茶のときには瀬戸茶碗で、ひずんでいる。珍妙である。」と書残しています。この茶会で使われたのは、織部の特徴である沓形茶碗(歪んだ形)といわれています。当時、茶碗は左右対称の形が当たり前でした。歪んだ織部の茶碗を始めて手にした客人たちはどんなに驚いたことか。当時の日本人の価値観を一変させてしまったようです。
織部焼は古田織部の指導のもと自分好みの焼き物を作らせたものです。今でも「織部好み」という言葉が残っているほどです。織部は変化にとんだ形と幾何学的な紋様、色合いに特徴があり、現代の私たちにさえ新鮮な印象を与えてくれ、ファンが多い焼き物です。織部所有の茶道具は評価が高く、切腹を命じた徳川秀忠自身が織部の道具を終生愛用したそうです。



18世紀の貴重な芸術品


秋といえば芸術の秋です。陶磁器の世界でも芸術品として世界でも高い評価を得ている作品があります。ロイヤルコペンハーゲンの「フローラダニカ」というディナーサービスです。1790年、ロシアの支配下にあったデンマークがロシアの女帝エカテリーナⅡ世のために製作されたものです。「フローラダニカ」は”デンマークの花”という意味です。1761年に出版された植物図鑑「フローラダニカ」を元絵として作られ、名付けられました。デンマークに自生する2,600もの花をすべて1点1点手書きで器に描くというものでした。絵付師J.C.バイエルンにより、12年の歳月をかけて製作されましたが、1802年、エカテリーナーⅡ世の死により中断、その後、1802点の完成品はローゼンボーク城に引き取られ、今でも公式の晩餐会に使われています。
フローラダニカを1度拝見したことがありますが、ボリュームたっぷりの金色の縁取りで、とても上品な色合いが印象的だった記憶があります。  

(参考) 株式会社 創美のHP 



桃山陶の生産地


瀬戸焼は、「せともの」の日常品というイメージがあるのに対して山一つ越えた美濃焼には、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの茶陶(桃山陶)からくる高級感があります。
しかし、桃山陶は、長い間、瀬戸で焼かれたと思われていました。黄瀬戸、瀬戸黒には、「セト」の名が付いていますし、古文書にも「セトチャワン」と書かれていましたので、瀬戸産であると信じられてきました。しかし、昭和5年、荒川豊蔵が、志野の陶片を発見したことにより、この定説はくつがえされます。”関家所有の筍絵の志野茶碗”を手にした時、その茶碗の高台の内側についていた米粒ほどの赤土を見た瞬間、豊蔵は疑問を抱きます。「瀬戸の土には、赤土はない。以前、故郷の美濃で拾った陶片によく似ている。美濃産ではないのか?」すぐ翌日、豊蔵は、美濃の大萱(おおかや)の古窯で、同種類の陶片を発見します。この発見により、桃山時代の茶陶は、美濃で焼かれたことが明らかになりました。この運命的な出会いにより、残りの人生を桃山陶の再現に取り組み実現します。この功績をたたえて、昭和30年、人間国宝に認定されます。



瀬戸焼の危機を救ったのは?


愛知県瀬戸市といえば、「せともの」の名産地ですが、とても苦しい時期がありました。17世紀前半、九州の有田で、磁器の生産に成功し、18世紀後半には、日本中に普及しはじめ、瀬戸の街は窮地におちいりました。
この危機を救うために、1804年、天草東向寺の天中和尚を頼って、一人有田に向かったのは、加藤民吉です。有田では、磁器の作り方は「極秘」とされ、民吉は、各地の窯場で働きながら、磁器の製法を学ぼうとしたのですが、なかなか技術を身につけることはできませんでした。しかし、平戸の福本仁左衛門のもとで、親切に技術を教えてもらうことができました。3年後、瀬戸に帰り、磁器の生産をはじめ、瀬戸の危機をすくったとされています。
こうした業績をたたえて、民吉は磁祖として窯神神社に祀られ、毎年9月の第2土・日曜日に、民吉の偉業をたたえる「せともの祭」が開催されています。毎年、50万の人々でにぎわいます。民吉物語は、雑誌・芝居などで紹介されてきましたが、かなり事実と違います。本来の民吉像をお知りになりたい方は、『瀬戸市史 陶磁史篇 三』をお読みください。



文豪トルストイの一輪さし


海外では日本食がブームになています。日本食といえばかかせないのが醤油です。この日本の醤油が西洋の歴史に登場するのは、17C、日本の江戸時代前期のことです。コンプラ商人によって海を渡っり、ヨーロッパの食通達の舌をうならせました。ルイ14世の食事の隠し味として使用された話は有名です。1765年に出版された「百科全書」にも紹介されています。醤油はコンプラ瓶(日本名:金富良瓶)に詰められて輸出されていました。コンプラの語源は、ポルトガル語のコンプラドール(仲買人)という意味からきています。オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人と呼んでいたようです。コンプラ瓶は波佐見焼で、瓶の肩に『JAPNSCHZOYA』とかかれていました。文豪トルストイは、書斎の一輪さしとして愛用していたようです。

(参照)キッコーマンのPHP



西洋での磁器づくりの始まり


17Cのヨーロッパでは、中国・日本の磁器が金より価値が高いといわれていました。貴族たちの間では、白くて薄い磁器を収集することがステイタスとされました。磁器の壷48個と騎兵隊600人と交換した王様もいたそうです。
ヨーロッパで最初に磁器づくりに成功したのはドイツです。ザクセン候アウグストが、錬金術師のヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに命じ、1709年、白磁に成功しました。これが、マイセンの始まりです。しかし、ベトガーは、白磁製作のノウハウが国外にもれることを恐れたアウグスト王により軟禁され、37才という短い一生をおくりました。しかし、どこから漏れたのか1750年にはヨーロッパ中で磁器の生産が始まりました。マイセンの「青い双剣」と呼ばれる剣のマークは、その製法が外にもれないようにという意味があるそうです。

(参照)ユーロクラシクスのHP



碗、お膳、廊下の意外な関係


飯碗は、持ちやすく手にしっくりなじむものがよいとされています。親指と中指で丸く輪を作った大きさが、丁度よい飯碗の大きさです。ほとんどの成人は12cmなので、標準の飯碗は直径12cmとされています。
飯碗を縦3列、横3列に並べた大きさがお膳の大きさです。お膳の大きさは特別なものではない限り、36cmと決められています。この大きさはちょうど女性の肩幅サイズと同じですので、お膳がとても扱いやすく疲れません。また、このお膳を持って廊下を余裕を持ってすれ違える幅 三尺(90cm) が、日本の標準の廊下の幅です。”90cm=36cm×2+18cm(余裕幅)” 飯碗、お膳、廊下には意外な関係があるようです。



「一井戸、ニ楽、三唐津」


わび茶碗において「一井戸、二楽、三唐津」という誉め言葉があります。「一井戸」の井戸茶碗は日本のやきものではなく朝鮮のものです。朝鮮の無名の陶工が焼いた雑器ですが、日本では利休によって取り立てられ抹茶茶碗として重宝されました。大名たちの間ではこの井戸茶碗を持つことがステイタスとされました。井戸茶碗は、高台の回りに釉が白くぶつぶつに固まった「梅華皮」(かいらぎ)が多い物が好まれたようです。「二楽」の楽茶碗は、利休が井戸茶碗からヒントを得て”長次郎”に焼かせた茶碗です。「一井戸」の長所を再現した日本の楽茶碗が二楽です。ちなみに、喜左衛門井戸(きざえもんいど)と呼ばれている井戸茶碗は 国宝に指定されています。

(参照)東京国立博物館のHP



日本の白磁のはじまり



古伊万里、柿右衛門というと高級ブランドで高価なものという印象があります。この焼き物は豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~1598年)と深い関係があります。この出兵により諸大名たちは朝鮮の陶工たちを日本に連れ帰り自分の藩内に窯を開かせて焼き物を作らせました。(別名やきもの戦争)鍋島藩により朝鮮から連れてこられた李参平(りさんぺい)は、1615年有田町の泉山で陶石を発見し日本で最初に白磁を焼くのに成功しました。これが有田焼の基礎となります。この白磁に赤絵を描いたのが有田の酒井田柿衛門(サカイダカキエモン)。有田磁器が「伊万里焼」と呼ばれるようになったのは、製品が伊万里港から出荷されたためです。のちに「伊万里」の名はヨーロッパまで名が知られるようになります。

(参考)トラフィックス・カフェのHP



御深井釉と尾張徳川家


「御深井釉」というものご存知でしょうか?「御深井」は「おふけ」と読み、青緑色の美しくとても上品な焼き物です。尾張徳川家に縁の深い焼き物です。名古屋城内にあった御深井丸という屋敷の庭で焼かれたことに始まります。そして、当時の尾張藩主、徳川義直が呼び寄せた明人陳元贇の指導のもと、瀬戸の陶工たちに焼かせたものです。
この御深井の焼き物は私の好きな焼き物の1つです。釉薬を掛けられる前に彫刻を施した器は特に私のお気に入りです。長年かけて集めた1つをご紹介しますね。こちら。色合いがとても上品なところが気に入っています。



日本最古の施釉陶片


日本で一番古い釉薬のかかった陶器は奈良の東大寺正倉院にあります。正倉院には聖武天皇遺愛の品などが納められています。奈良時代には釉薬の知識はなく唐三彩によく似ていたことから、戦前までは唐からの舶来品としてみていました。しかし、昭和37から40年の調査(人間国宝 加藤卓男氏)で国産と断定されました。陶片の右回転のロクロ目から判断されたようです。世界中で右回転のロクロを使用しているのは日本だけです。陶芸経験のある元総理の細川さんが北欧で、ロクロが左回転するのでとまどってしまったと家庭画報に掲載されているのを思い出しました。



「わらべうた」の茶壷


パロマのテレビコマーシャルの中で
”ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい茶壷に追われてトッピンシャン抜けたーらドンドコショ俵の鼠が米食ってチュー・・・・・”という「わらべうた」が流れています。その中の茶壷とは江戸時代の「御茶壺道中」のことです。将軍家のための宇治茶は信楽の壺(御茶壺)に入れて運ばれていました。2代将軍秀忠が信楽の壺を2本注文されてから御用品となり、大名行列のような大袈裟な行列(御茶壺道中)で運ばれたようです。御茶壺は信楽の「信楽古陶館」に展示されています。



信楽焼のはじまり


11月22日、信楽で紫香楽宮の朝堂とみられる巨大建造物が発見されマスコミに取り上げられていました。紫香楽宮は奈良時代の聖武天皇が天平14(742)年から造り始め、17年に遷都。15年には大仏建立を発願、甲賀寺の工事が開始されました。しかし周辺の山火事が相次ぐなどし、半年足らずで平城京に都を移しました。この紫香楽宮と信楽焼には深い関係があります。信楽焼は聖武天皇が紫香楽宮を造営した時、瓦を焼かせたことが始りといわれています。もし、山火事などがなかったら、奈良の大仏様、奈良の町並みが信楽の地に・・・・信楽焼も違った発展をしたでしょうね。想像するだけワクワクします。

(参考)邪馬台国大研究のHP



信楽焼の狸のルーツ


信楽焼といえば狸の置物で有名ですね。最初に造ったのは、狸庵の初代藤原銕造(てつぞう)です。修行時代に京都で見た腹鼓狸の姿を縁起物としてやきもので作ったのが始まりといわれています。狸が有名になるのは実は戦後のことなんですよ。昭和26年、昭和天皇の信楽行幸の時狸たちに旗を持たせて歓迎。昭和天皇はこれをたいへん気に召され,「をさなどき あつめしからに なつかしも 信楽の狸をみれば」と詠まれた。その後、全国に狸が知れ渡るようになったそうです。(写真は、初代狸の置物です)






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